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- 大山積神社について
大山積神社について
伝説
飛鳥時代の大化4年(647年)、村主の夢の中で丁字庵の山腹に神火が現れた。村人と一緒にその方向に行ってみると、巨大な大石があったため、その下に祠を建てて産土神とし、石権現と呼ぶようになったという。
当社本殿の後ろには、見るものを圧倒する巨石が、御神体として祀られている。その巨石には馬の足跡のような大小無数の穴があり、神霊が白馬に乗って降り立ったという伝説が残されている。
歴史
江戸時代、当地方は森藩久留島家の飛地領地となる。神社の石垣が3年がかりで改修され、武者返しともいえる立派な石垣ができ、完全な近代城郭の姿となった。
豊後森藩久留島家は石高が少ないことから築城を許されず、城郭を持たない藩として知られているが、当社や、玖珠町の末廣神社のように、その代替機能はあった。
江戸時代を通じて、築城は非常に膨大な規制があったが、神社改築の名目であれば、かなりの大工事が可能だったようで、当社の石垣はまさにそれを証明している。
また、境内からの見晴らしも、山城を彷彿とさせるほどで、遠く別府湾も望める。
なお、末廣神社のある玖珠町と当地は、森藩の参勤交代道となった玖珠街道でつながれており、現在も石畳の小道が残る。
当社の御祭神などの情報はよくわからないが、末廣神社と同様、久留島家は瀬戸内海水軍の村上氏、さらに来島氏の流れを汲む一族で、出身の伊予国一宮・大山祇神社を勧請したものと考えられる。